加瀬英明のコラム
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  沖縄米軍報道に違和感 ヘイト・ジャーナリズムへの懸念
    Date : 2016/07/26 (Tue)
 沖縄県うるま市で、アメリカ軍の軍属によって、20歳の日本女性が殺害された。

 痛ましい事件である。日本の新聞や、テレビによって、連日のように大きく取り上げられている。オバマ大統領までが、この事件について陳謝した。

 地元の沖縄本島では、アメリカ軍を糾弾する島民集会があい次いで開かれ、6月19日には、那覇において6万5000人(主催者発表)が集まって、気勢をあげた。

 たしかに、痛ましい事件だった。しかし、私はマスコミが勢揃いして、あれほどまで賑々しく報道する必要が、いったいあるのだろうかと思う。

 沖縄県警の統計によれば、人口当りの殺傷罪、盗みなど刑事犯が占める比率は、沖縄県民が0.24%であるのに対して、沖縄県に駐留するアメリカ軍人、軍属は、その約5分の1の0.05%でしかない。

 この事件直後に、アメリカ軍の女子兵士が、酔って乗用車を逆走させ、衝突事故を起した。幸いなことに、死傷者がでなかった。

 このあいだにも、本土では殺人事件が続発した。警察官2人が酔っぱらって、乗用車を逆走させて、対向車と衝撃する事故が発生している。

 6月後半には、大型店で男性が包丁を振り回して、店内の客を無差別に刺して、1人が死亡、3人が重軽傷を負う、凄惨な事件も起った。

 6月20日に、テレビ朝日のニュース番組を見ていたら、レポーターが前日に集会が開かれた広い競技場を背景にして、集会が「深い怒りに包まれていた‥‥」とか、「県民の怒りは限度をこえた」と、連呼していた。

 いったい、本土で500人か、600人でも集まって、同じように痛ましい殺人事件を糾弾する集会が、1回でも開かれたものだろうか。テレビ朝日のレポーターがマイクを握って、「深い怒りに包まれていた」とか、「国民の怒りは限度をこえた」と、叫んだことがあるものだろうか。

 沖縄でこのような集会が行われるのは、政治的な目的があるから理解できるが、なぜ本土において、アメリカ兵による不祥事に対する怒りを煽りたてる必要が、あるのだろうか。

 今年に入ってから、ヘイトスピーチを禁じる立法が行われた。アメリカ軍の軍属が若い女性を襲って殺害したことは、いうまでもなく許すことができないことだ。

 だが、沖縄で起った事件を取り上げて、連日、大きく報道するのは、常軌を逸しているとしかいえない。これは、ヘイトスピーチ――あるいは、ヘイト・ジャーナリズムに当たるものだ。

 アメリカ軍が日本に駐留しているのが、けしからんというのならば、アメリカ軍がいなくても、日本が自分の力で国を守ることができる、精強な軍隊を持たなければならないと主張するべきだが、そうすることもない。

 日本には、常時、10万人あまりのアメリカ陸海空軍人があって、毎年、その4分の1あまりが交替している。毎年、2万5000人のアメリカ兵が帰米するとして、もし、日本においてアメリカ兵に対する人種差別が酷いと訴えられたら、「もう日本を守るのは、やめよう」という世論が、醸成されかねない。

 その時は、テレビ朝日のレポーターが高給を食んでいる職場をやめて、自衛隊に入隊してくれるのだろうか。


  新著のご案内
    Date : 2016/07/11 (Mon)
 今月、私の監修によって、『岸信介最後の回想 その生涯と60年安保』(勉誠出版)が、出版されました。

 帯に「岸信介こそ、戦後もっとも偉大な首相だった。アメリカが内に籠もり、日本は自立を強いられる。生誕120周年の今、36年ぶりに公開される談話によって、岸信介が蘇る」とうたわれています。

 監修のことばを、お読み下さい。


 本書は、岸信介首相(在職1957年〜60年)が、引退後、1980年に静岡県御殿場の自邸で、幼少時代からその日まで波瀾にとんだ人生を、2日にわたって振り返った、生まの声を録音した記録である。

 この岸元首相の回想は、今日まで発表されることがなかった。

 この時、聞き役となった、加地悦子夫人(当時・別府大学生活科教授)は、戦前、商工官僚だった岸氏宅の前に住んでいた縁で、岸氏に幼いころから可愛がられてきた。

 私は今年に入ってから、加地夫人から求められて、録音の速記録に目を通した。これまで語られたことがなかった、岸首相の信念とその人柄について、きわめて貴重な資料である
のに、驚いた。

 本年は、岸首相の生誕120周年に当たる。

 日本は対日講和条約によって、独立を回復してから64年になるが、それ以来、日本が歩んできた道が、はたして正しかったか、熟考しなければならない時を迎えている。

 私は岸首相が戦後の日本の歴代の首相のなかで、もっとも傑出した首相だったと、考えてきた。

 岸首相は1960年に日米安全保障条約の改定を、身命を賭して行った。

 吉田茂首相が1951年にサンフランシスコにおいて講和条約に調印した同じ日に、日米安全保障条約が結ばれた。

 ところが、この時の安保条約は不平等条約であって、アメリカ軍が日本に無期限に駐留することを認めていたが、アメリカが日本を防衛する義務を負っていなかった。

 アメリカ軍が対日占領の形を変えて、駐留を継続するようなことだったが、当時の日本には朝鮮戦争が勃発した直後に、マッカーサー元帥の命令によって創設した警察予備隊しかなかったから、仕方がなかったといえよう。

 岸首相は、日本を再び独立国家としようという、信念を燃やしていた。アイゼンハワー政権のアメリカと交渉して、安保条約を改正して、アメリカに日本を守る義務を負わせるとともに、両国の意志によって、延長をはかることができる期限を設けた。

 新条約は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」と呼ばれ、経済をはじめとする諸分野において、「相互協力」することがうたわれた。

 新条約は日米関係に新しい時代を、もたらすものだった。
 
 新時代を象徴するために、アイゼンハワー大統領が、戦後、最初のアメリカ大統領として訪日することになった。

 しかし、岸首相は安保条約の改正を成し遂げたが、朝日新聞をはじめとする大新聞や、野党などの左翼勢力によって煽動された反対運動によって、志なかばにして辞職せざるをえなかった。

 連日、数万人という左翼のデモ隊が、国会を取り巻き、機動隊と衝突してしばしば暴徒化した。

 アイゼンハワー大統領の訪日を準備するために来日した、

 ハガティ秘書を乗せた乗用車が、羽田空港を出ようとする時に、暴徒によって取り囲まれて、立往生する事態が起った。

 岸首相はそのために大統領が来日しても、安全を守ることができないという判断から、大統領の訪日を断らざるをえなくなり、その責任をとって辞職した。

 もし、あのような大規模な反対運動がなかったとしたら、日本の歯車が狂うことはなかった。

 戦後、米ソの冷戦による対決が終わると、中国が台頭することによって、日本を取り巻く国際環境はつねに厳しいものであり続けたが、日本はアメリカの保護に国家の安全を委ねて、安眠を貪ってきた。

 ところが、いまアメリカが世界秩序を守るのに疲れ果てて、内に籠ろうとしている。そのために、日本は好むと好まざるをえずに、自立することを強いられてゆこう。

 岸氏が日本が先の大戦に敗れてから、日本がどうあるべきか、日本の未来をどのように描いてきたのか、いまこそ、私たちは学ばなければならないと思う。

 私は速記録を整理していた5月はじめに、日本の保守派の思潮を代表する月刊誌の一つの『正論』の新聞広告を見て、暗然とした。

 「総力特集 迷走するアメリカ 日本を守るのは誰か」というものだった。

 テレビや、新聞は、ドナルド・トランプがアメリカのインディアナ州の予備選挙を制して、共和党大統領候補として指名されることが、ほぼ確定したと報じていた。

 民主党は同州の予備選挙で、バーニー・サンダース上院議員が勝った。ヒラリー・クリントン夫人の優位が動かないものの、サンダース議員が急追していることによって、十一月に誰が大統領として当選しても、トランプ、サンダースの主張が、来年からアメリカの進路に大きな影響を及ぼすこととなろう。

 日本は1952(昭和27)年4月に独立を回復してから、国家の安全をひたすらアメリカに縋(すが)ってきた。

 “トランプ現象”とは何か。1980年にロナルド・レーガンが大統領予備選挙に挑んだ時に、カリフォルニア州知事をつとめたことがあったものの、俳優あがりのシロウトだと嘲けられた。レーガンが「アメリカに朝を招こう(モーニング・イン・アメリカ)」と呼びかけた楽観主義者(オプティミスト)であったのに対して、トランプは悲観主義者(ペシミスト)だ。

 私はCNNのニュースで、トランプが集会で演説するのをみた。トランプはこう訴えていた。「アメリカは数百億ドルを投じて、イラクにつぎつぎと新しい小学校を造ってきたが、造るごとにテロリストによって、破壊されてきた。そのかたわら、(マンハッタンの隣りにある)ブルックリンでは、小学校の校舎が老朽化して、われわれの子供たちの生命を危険にさらしている。もはやアメリカは豊かな国ではない。アメリカの力をアメリカのなかで使おう」

 サンダースは、アメリカをスウェーデンや、デンマーク型の福祉国家につくり変えようとしており、アメリカを内へ籠らせるものだ。若い男女の圧倒的な支持を、獲得している。

 アメリカのヨーロッパ化が、始まっている。かつて、ヨーロッパは世界の覇権を握っていた。しかし、その重荷を担うのに疲れ果てて、内に籠るようになった。

 日本は独立を回復して以来、“吉田ドクトリン”のもとで、アメリカに国防を委ねて、経済を優先させる、富国強兵ならぬ富国軽武装の道をとってきた。

 アメリカが迷走をはじめた、という。しかし、日本がアメリカによって占領下で強要された「平和憲法」を護符(おふだ)として恃(たの)んで、これまで迷走してきたのではなかったのか。

 “トランプ・サンダース現象”は、オバマ政権がもたらしたものだ。アメリカは、オバマ大統領が「アメリカは世界の警察官ではない」と言明したように、世界を守る意志力を萎えさせてしまった。

 いま、日米関係が大きく揺らごうとしている。まさに日本にとって、青天の霹靂(へきれき)――はげしい雷鳴である。
日本は独立を回復してから、一貫して経済優先・国防軽視を国是としてきたが、「吉田ドクトリン」と呼ばれてきた。

 この“吉田ドクトリン”が破産した。「吉田ドクトリン」は、永井陽之助氏(当時、青山学院大学助教授)が1985年に造語した言葉だが、今日まで保守本流による政治を形づくってきた。

 私は吉田首相が講和条約に調印して帰ってから、政治生命を賭けて、憲法改正に取り組むべきだったと、説いてきた。吉田首相は正しい国家観を、欠いていた。旧軍を嫌ったために、警察予備隊を保安隊、さらに自衛隊として改編したものの、独立国にとって軍の存在が不可欠であるのに、今日でも自衛隊は中途半端な擬(まが)い物(もの)でしかない。

 吉田首相と岸首相を比較することによって、戦後の日本がいったいどこで誤まってしまったのか、理解することができる。

 私は監修者の序文を一人で書くよりも、吉田茂の優れた研究者である、堤堯(つつみぎょう)氏と対談して、巻頭に載せたいと思った。堤氏は月刊『文芸春秋』の名編集長をつとめたが、吉田首相が戦後の日本に対して果した役割を、高く評価している。

 この4月に、堤氏とテレビで対談を終えた時に、私が「誰が戦後の首相のなかで、もっとも偉いと思うか」とたずねたところ、言下に「もちろん、岸信介だ」という答が戻ってきた。本書のために対談を行ったが、多年の親しい友人であるために、話がしばしば脱線してしまい、結局、堤氏から私が一人で書いたほうがよい、ということになった。

 アメリカのダレス特使が、占領末期に対日講和条約の締結交渉のために来日して、吉田首相に「日本が再軍備しないでいることは、国際情勢から許されない」と、強く迫った。

 吉田首相はそれに対して、「日本は経済復興のために、国民に耐乏生活を強いている困難な時期にある。軍備に巨額の金を使えば、経済復興を大きく遅らせることになる。それに理由なき戦争にかり出された国民にとって、敗戦の傷痕がまだ残っており、再軍備に必要な心理的条件が失われたままでいる」といって、頑なに反対した。

 アメリカは、ダレス特使が来日した時に、日本を完全に非武装化した日本国憲法を強要したことを悔いていたから、独立回復とともに、憲法を改正することができたはずだった。
吉田首相が日本が暴走したために、先の戦争を招いたと信じていたのに対して、岸首相は日米戦争がアメリカによって、一方的に強いられたと考えていた。

 日本が戦った相手のフランクリン・ルーズベルト大統領の前任者のハーバート・フーバー第31代大統領は優れた歴史家として評価されているが、その回想録のなかで、先の日米戦争はアメリカが日本に不法に仕掛けたものであり、「ルーズベルトという、狂人(マッドマン)一人に責任がある」と、糾弾している。フーバーは占領下の日本を訪れて、マッカーサー元帥と三回にわたって会談したが、そう発言したところ、マッカーサーが同意したと述べている。(『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』藤井厳喜、稲村公望、茂木弘道著〈勉誠出版、2016年〉を読まれたい。)

 岸氏は敗戦直後に占領軍によって、A級戦犯容疑者として逮捕された。入獄する前に「名に代へてこの聖戦(みいくさ)の正しさを 萬代(よろずよ)までも伝へ残さむ」と詠んで、高校の恩師へ贈っている。

 堤氏は吉田首相が経済を優先して、富国軽武装の道を選んだのを、陸奥宗光(むつむねのり)外相が日清戦争後に三国干渉を受けて、遼東半島を清国に返還した時に、「他策なかりしを信ぜんと欲す」(『蹇蹇録(けんけんろく)』)と述べているのを引用して、アメリカの圧力をかわすための擬態だったと、語った。

 だが、軍を創建するのは、予算の問題ではあるまい。軍は精神によって成り立っている。独立国の根幹は、精神である。

 吉田首相は在職中に、憲法改正に熱意を示すことが、なかった。引退後も、口では憲法を改正すべきことを唱えたが、積極的に推進することがなかった。はたして擬態だったのだろうか。

 岸首相は1957年5月に、片務条約だった日米安保条約を改定するために、ワシントンへ向かった。

 吉田元首相は岸首相の滞米中に、毎日新聞に「訪米の岸首相に望む」と題して、寄稿している。

 「安保条約、行政協定の改正などについて意見が出ているようだ。しかし、私はこれに手を触れる必要は全然ないと信ずる。今までのとおりで一向差支えない。条約を結んだ以上は互いに信義をもって守ってこそ国際条約といえる。(中略)条約というものは、対等のものもあるが、不対等の条約もあって、それを結ぶことによって、国の利益になるなら私は喜んでその条約を結ぶ。下宿屋の二階で法律論をたたかわしているようなことで政治はやれない」(同年6月14日朝刊)

 岸氏は巣鴨刑務所から釈放されると、同志とともに、「憲法を改正して独立国にふさわしい体制をつくる」という旗印を掲げて、日本再建連盟を結成した。1953年に、吉田首相の自由党から衆議院議員選挙に当選すると、憲法調査会の初代会長に就任している。政界から退いた後にも、自主憲法制定国民会議会長として、全国をまわって憲法改正をすべきことを訴えた。

 岸首相は安保条約を改定して、アイゼンハワー大統領の訪日を成功させたうえで、憲法改正への道筋をつけることを、目論んでいた。

 岸首相は引退後に、「吉田氏の役割は、サンフランシスコ講和条約を締結したところで、終わるべきだった」と、述懐している。岸内閣が退陣した後は、池田勇人首相をはじめとする、いわゆる“吉田学校”によって政治が支配され、“吉田ドクトリン”のもとで、日本の迷走が続いた。

 日本の戦後は、“吉田ドクトリン”によって、律せられてきた。

 これまで、さまざまな機会をとらえて、「戦後が終わった」といわれてきたが、アメリカが超大国の座から降りることによって、日本にとって本当の意味で戦後が終わってしまった。

 私は1960年の安保騒動を、ジャーナリストとして、毎日、取材したが、後にその時の体験を、月刊『文芸春秋』に寄稿した。

 「国会を囲む道路は、熱狂して、歓声をあげながら行進する人々の長い列が、あふれるように続いた。歌声、ラウドスピーカーが叫ぶ声、林のように揺れる旗。作業服の動労の一隊が威勢よく声を掛けながら、駆け足で進んでくる。首相官邸の前の曲り角にくると、激しいジグザグ・デモに移り、何千という人数が渦を巻く。

 この見通すこともできない人の波は、朝からずっと切れずに続いてくる」

 岸首相が辞職すると、新しい安保条約が発効したというのに、安保条約の改定に対して国会を囲んで、あれほどまで荒れ狂ったデモが、まるで何ごともなかったように、沈静してしまった。まるで悪夢をみたようだった。

 反対運動は国民のごく一部にしかあたらない勢力によって、つくりだされたものだったのだ。

 私は「突然、新約聖書にある言葉を思い出した。『悪霊どもは、その人々から出て、豚にはいった。すると、豚の群はいきなり崖を駆け下って海に入り、溺れ死んだ。』」と、書いた。

 日米安保条約は、1970年に新条約の最初の期限を迎えるまでは、左翼勢力などによって動員された人々が街頭に繰り出して、反対することがなかった。

 いまでも左翼勢力は1959年から翌年にわたって、国会の周囲を占拠して狼藉(ろうぜき)のかぎりを働いた騒動を「安保闘争」と呼んでいるが、マスコミによって1970年の数年前から「70年危機」として喧伝(けんでん)されたにもかかわらず、ごく一部の撥ねあがった学生たちが新宿駅構内で騒ぎ立てただけで、拍子抜けしたものに終わった。

 これは、安保条約が改定された時から、日本国民の圧倒的多数が安保条約に反対する左翼勢力に組することが、まったくなかったことを、証している。

 2015年になって、安倍内閣が集団的自衛権の一部行使を認める安保関連法を成立させた。この時も、民主党や、共産党などの野党や、市民グループが、連日、国会を囲んで、デモや、集会を行った。朝日新聞や、大手テレビがさかんに反対するように煽ったが、またもや、“お祭騒ぎ”に終わった。

 私は国会の近くに、仕事場を持っている。そこで、何日か続けて国会周辺に出かけて、安保関連法案に反対して、「平和憲法を守れ」とか、「戦争法絶対粉碎」というゼッケンをつけた善男善女に、質問を試みた。すると、全員が現憲法も、安保関連法案も、読んだことがないと、認めた。

 堤氏は60年安保の全学連のリーダーだった、唐牛健太郎(かろうじけんたろう)氏と親しかった。堤氏によれば、唐牛氏は安保条約の条文を、一度も読んだことがなかったという。

 これから、日本はどうしたらよいのだろうか。

 日本は危険な世界のなかで生き延びるためには、急いで憲法を改正して、独立国としてふさわしい体制を、整えなければならない。なかでも、憲法第九条は日本の平和を守るどころか、日本の平和を危ふくするものである。(現憲法による戦後の呪縛について、田久保忠衛氏と私との対談による『日本国憲法と吉田茂』〈自由社、2017年〉を、お読みいただきたい。)

 いま、私たちは岸首相の再評価を行うことが、求められている。

 岸元首相は1987年8月に、90歳で没した。

 都内の青山葬儀所で葬儀が営まれ、中曽根康弘首相(当時)が弔辞を述べたが、今日読むと、故人の墓碑銘として、もっともふさわしいものだった。

 「真の政治家は、時流に阿(おもね)らず、自己を犠牲にして国家百年の大計を敢行しなければなりません。大きい志を遂げようとする政治家は、毀誉褒貶(きよほうへん)が大きくなるのは当然ですが、時代が経過すれば、かえってスケールの大きさ、底力の強さが明らかになります。自己の信念を忠実に全うする政治家は近来、少なくなっています。その点で、岸先生ほど信念に忠実に生きた政治家はいませんでした」


  ご主人にやさしくしてください
    Date : 2016/07/08 (Fri)
 5月に喜界島に講師として、招かれた。

 人口が7000人、車で一周して38キロ、砂糖黍が主な産業の南の島だ。

 ここで、奄美群島市町村議会議員大会が開かれて、300人あまりの議員が集まった。

 舞台の脇の垂れ幕に、「激動する国際情勢と日本の進路」という演題が書かれていた。

 私は開口一番、「もう40年以上も、今日いただいた演題でお話してきましたが、これから世界だけでなく、日本が激動することになります」と、警告した。

 アメリカが世界秩序を守ることに疲れて、日本を守る意志を萎えさせていると説明したうえで、日本を守るために日本国憲法を改めたいと、訴えた。

 質疑応答に移ったところ、50代の女性が手を挙げた。マイクを握ると、「現行憲法はアメリカが強要したものではありません。日本国憲法は世界に平和憲法として、知られています。この憲法を守ることによって、私たちの平和が守られます」と、述べた。

 私は「たいへん、よい質問をいただきました」と感謝してから、「まことに残念ですが、古(いにしえ)の昔から国際社会は悪の社会でした。自国を守る意志がない国は、例外なく滅ぼされてきました。ところで、テレビのニュースを見ると、このところ、DV――家庭内暴力によって、家族を危(あや)める事件が頻発しています。まず日本国憲法の精神を、家庭のなかで実現しましよう」と答えて、「今晩、お帰りになったら、ご主人にやさしくしてあげて下さい」と、お願いした。

 すると、質問した女性が「わたくしは、独身です!」と叫んだので、会場が拍手と爆笑によって包まれた。

 休憩ののちに、会場に机が並べられて、懇親会になった。

 議員の先生がたが列をつくって、コップに黒糖焼酎を注いでくれた。先の質問した女性が、徳之島の日本共産党の議員だと、教えてくれた。

 私は瓶を持つと、女性議員のところまでいって、お酌した。容姿が美しい人だった。よい質問をもらった礼を述べて、「この国を守るために、ご一緒に頑張りましよう」といって、握手を交わした。

 全国で憲法改正について講演することが多いが、しばしば、聴衆から「安倍内閣が中国を刺激しているのが悪い」とか、「日本の安全を外交努力で守れるはずだ」と、反論される。

 幕末に、日本はアメリカをはじめとする西洋列強から、不平等条約を強いられた。日本の独立を守るために、何としてでも不平等条約を改正しなければならなかった。先人たちは歯を食いしばって、血が滲む努力を重ねた。

 現行憲法はアメリカが占領下で、日本が再び自立することができないように押し付けた、憲法を装った不平等条約である。

 現行憲法を一日も早く改正しなければ、私たちは幕末から明治までの歴史を語る資格がない。


  アメリカにおける知的エリートの暴走
    Date : 2016/07/07 (Thu)
 アメリカがトランプの話題で、沸騰している。

 不動産王のドナルド・トランプは、大統領選挙へ向けた予備選挙が2月に始まった当初は、アメリカの知的なエリートが支配するマスコミから、お笑い芸人(ボードビリアン)もどきの奇矯な泡沫候補だと、見られていた。

 私もすっかり、そう思い込んでいた。私は年2回、ワシントンに通っているが、アメリカの知的な社会としか、交わってこなかった。

 いま、アメリカでどこへ行っても、トランプと並んで大きな話題となっているのが、日本でほとんど報道されていないが、トイレ(便所)である。

 5月に、オバマ大統領が大統領令を発して、男性であっても、女性であっても、自分がそう認識している性別に従って、男女どちらのトイレを使ってもよい、ということにした。

 出生時に届け出た性別によって、トイレの使用を強いるのは、ゲイ、レズビアン、性同一障害者に対する差別だというのだ。

 この大統領令をめぐって、アメリカは大混乱だ。全米が賛否に沸きかえっている。自治体によっては、大統領令に従うことを拒んでいる。チェーンストアが顧客に従来通りに、出生時の性別によってしか、トイレを使うことを認めないときめたところ、ボイコット運動の標的となっている。

 来日したアメリカの親しい友人が、「いま、アメリカで流行っているジョークがある」といって、「ケネディ(大統領)のレガシーは男(マン)を月面に送った。オバマは男(マン)を女性トイレに送った」と、教えてくれた。

 昨年10月には、『ニューヨーク・タイムズ』紙が、大きな記事を載せて、「ミスター」「ミセス」「ミス」と呼ぶのは、差別であるからといって、そのかわりに全員を「Mx」と呼ぶべきだと、促した。私はいったいどうMxを発音したらよいのか、分からなかったので、アメリカ大使館員に確かめたところ、「ミックス」というそうである。

 これは、氷山の一角にしかすぎない。差別反対主義者たちが、旧来の社会常識を大きく変えてきた。日本でも、セクハラ、パワハラからヘイトスピーチまで、模倣されるようになっている。

 トランプが知的エリートたちの予想を大きく裏切って、大統領レースの先頭に躍り出たのは、所得格差がひろがるなかで、金持ちと庶民のあいだの溝が、深まったのに対する不満が爆発したことによると、説明されている。

 ハイテク化に加えて、経済の構造改革が叫ばれてきた。その追風を受けて、経済効率が向上して、金(かね)が金を生むわきで、人手が省かれて、庶民の労働価値が低下してきた。

 トランプ現象は、社会が高学歴の知的エリートによって、支配されてきたことに対する反乱である。素朴な庶民にとっては、祖祖父、祖祖母から使ってきた言葉を使ってはならないとか、ミスターとか、ミセスは差別になるとか、男が女性トイレに入ってもよいとか、バカバカしいにもほどがある。

 庶民にとっては、もう、いい加減にしてほしい。男女の区別があって、何が悪い。このところ、アメリカでは「チェアマン」(議長、会長)といってはならない。「マン」が男を意味するからだ。「チェアパーソン(人)」といわねばならない。数百年も使い慣れてきた言葉のどこが、悪いのか。

 もっとも、日本でも「痴呆症」が差別になるから、「認知症」というようになった。それだったら、「不妊症」は「妊娠症」というべきだ。警察庁が「婦人警察官」の「婦」が女が帚(ほうき)を持っているから差別だといって、「女性警察官」と呼び替えるようになった。

 私は帚で掃除するほうが、心が籠っていると思う。

 歴史を振り返ると、男女の区別や、言葉が乱れると、文明が滅びることを教えている。もう、アメリカの真似はやめたい。


  流しのギター弾きになりたかった
    Date : 2016/07/06 (Wed)
 2ヶ月前に、ある雑誌の記者が私の物書きとしての半生を、取材にやってきた。

 最後の質問が、「もし、違う人生を歩んだとしたら、何になりたかったですか?」と、いうものだった。

 とっさに、私は「流しのギター弾き」と答えた。

 30年前には、もう流しはいなくなっていたが、銀座で飲んでいると、サブちゃんといって引退していたが、電話をしてアパートにいると、銀座まで出て来てくれたものだった。流しているころから、馴染(なじみ)だった。

 私は不器用で、楽器は何一つ弾けないが、下手なのに微醺をおびて歌うことがある。

 黛敏郎氏と親しかったが、『題名のない音楽会』や、徳間音響に煽(おだ)てられて、日劇の舞台で歌ったことがあった。その時に、島倉千代ちゃんが日劇の舞台裏に、大きな花束を持ってきてくれた。

 「流しになりたい」と、不用意に答えたのは、日頃から演歌が好きだからだ。演歌は、日本人の溜息だ。演歌は情歌だ。

 日本のどこへ行っても、ついこのあいだまでは、情けが微粒子のように空気のなかを、飛んでいたものだった。私たちはその空気を吸って、生きていた。

 演歌の歌詞には、外来のカタカナ語も、漢語もない。運命(さだめ)、生命(いのち)、別離(べつり)、憧憬(あこがれ)といったように、漢字が日本に入ってきてから、もう千数百年もたつというのに、漢語はいまだに私たちの心の近くにない。

 演歌は、心の奥底の溜息なのだ。はかない、やるせない、しがない、うらぶれた――人生は苦の連続だったから、ちょっとでも楽しいことがあったら、喜んだ。

 雪だけでも、みず雪、かた雪、こな雪、つぶ雪、ささ雪、わた雪、氷雪、春の雪といったように、感情を託したものだった。

 演歌の歌詞は、すべて日本語(やまとことば)で綴られている。演歌があるかぎり、私たちは万葉の歌を生んだ風土に住んでいる。

 私は1950年代末に、アメリカに留学したが、その時に『万葉集』と『古今和歌集』の2冊だけを、携えていった。古今集に、小野小町の「思いつつ寝ればや人の見えつら 夢と知りせば覚めざらましを」という、歌がある。小町は平安時代前期の歌人だが、絶世の美女だった。
といって、もちろん、小町の肖像は残っていない。

『小倉百人一首』の絵札には、女性は後ろを向いた横顔しか、描かれていない。正面から描いたら、あられもなかった。憧れた女(ひと)は、胸に秘めたものだった。

 アメリカのクラスメートから、「自分の恋人だ」といって、写真を何枚も見せられたが、アメリカ人は何と即物的なのだろうかと、思った。

 もっとも、日本でも雑誌のグラビアに、美女の写真が大きく載っているが、私が生まれる前から、日本の西洋化が容赦なく進んでいたのだろう。

 明治はじめの小説が、恋を「孤悲」と書いていた。大正の演歌に、「逢(あ)いたさ見たさに 怖さを忘れ」、昭和に入ると、古賀政男の曲で「儚き影よ わが恋よ」「二度と泣くまい 恋すまい」というように、恋は耐えるものだった。

 日本人は万葉の昔から、つい4、50年前までは、風にも、雨にも、波にも、鷗(かもめ)にも、江戸時代、明治になると、花火、汽笛にも、恋心を託した。多感だった。

 ところが、今では自分勝手な快楽を、四六時中、追っているために、なぜか、まるで宅急便になったように急いでおり、落ち着きがない。恋までが、衝動的になった。どこを見ても、情けを知らない、器械的な人間ばかりになってしまった。

 人生が楽の連続であるべきだと思い込んでいるから、すぐに傷いてしまう。

 今の人は、「感動した」「感心した」というかわりに、口を揃えて「癒された」という。私はNHKから大手の民放までが、よい景色や、絵や、映画をみたり、本を読んで、「癒された」というたびに、恐怖に戦(おのの)く。

 当り前のように、「癒される」という言葉が使われるようになったのは、この20年ほどのことだ。

 私は会話のなかで、「癒された」と聞いたら、「え、どこか体が悪いんですか?」と、たずねることにしている。「癒される」というのは、病んでいることを前提としている。

 人々が耐えることができなくなったために、すぐに傷いて、神経症を患うようになっているのだろう。

 社民党が解党して、民進党に合流することを検討しているという。

 私は「社会」という言葉を、嫌ってきた。

 社会主義とか、つむじが左に巻いていると、頭の働きが少しおかしいと信じられてきた左巻きを、連想させるからではない。

 「社会」も明治に入ってから、西洋語を翻訳するために造られた借用語とも、舶来語とも、呼ばれた。西洋人の真似に身を窶(やつ)す学者が、よく使う舶来語だから、上っ滑りで、意味がよく分からない。

 「世間様に申し訳ない」「世間知らず」「世間の手前」「世間に負けた」「世間の風の冷たさに」というのを、「社会様に顔向けできない」「社会知らず」「社会に負けた」と、いえないだろう。

 舶来語は、薄っぺらだ。日本社会党も、社民党も、世間党といっていたら、泡(あぶく)のように消えることがなかったはずである。

 だから、私は流しのギター弾きになりたかった。


  オバマ大統領の広島での祈り 71年前の原爆の意味
    Date : 2016/07/05 (Tue)
 5月27日に、オバマ大統領が広島の原爆慰霊碑に詣でた。

 慰霊碑の前で、しばし目を閉じて黙祷したから、詣でたといってよいだろう。

 アメリカの大統領が、原爆犠牲者の慰霊碑の前で黙祷してよかったと、思った。私はいや、来なかったほうがよかったとも、思った。

 だが、大統領が慰霊碑の前で黙祷を捧げたことによって、アメリカ国民の多くがアメリカが71年前に、日本に対しておぞましい非人道的な罪を犯したと、覚ることとなろうと思い直した。

 最後の戦友会での講演

 いまから26年前に、広島、長崎に原爆を投下したアメリカ陸軍航空隊の第509混成団が最後の戦友会(リユニオン)を、ユタ州とネバダ州の州境にあるウェンドオーバーで開催した。

 私はこの最後の戦友会に、記念講演の講師として招かれた。

 ウェンドオーバーは四方を広大な砂漠によって囲まれている。大戦中には小さな町だったが、もっとも近い町でも200キロあまり離れていた。

 そのために、昭和19(1944)年に、ここに秘密航空基地が設けられて、原爆投下実施部隊が編成され、極秘裏に訓練を受けた。

 当時の隊員が家族を連れて、全米から500人あまり、ウェンドオーバーのホテルに集まった。

 私は講演の前日に旧隊員に案内されて、かつての飛行場を歩きまわった。原爆を投下した、ポール・ティベッツ大佐の乗機『エノラ・ゲイ』号が使った格納庫が、そのままの姿で残っていた。大佐が混成団の司令官だった。

 閑散とした飛行場は、民間用に使われており、小型のセスナ機が数機とまっていた。

 知らないで訪れた人は、原爆投下部隊の秘密基地だったということを説明する掲示板もないから、ただ、さびれた飛行場だとしか思わないことだろう。

 翌日、ホテルのホールで講演をした。40分、話すことになった。

 講演の前に、ティベッツ准将(退役)に紹介された。小柄な老人で、最前列に座っていた。

 日本国民は原爆投下を赦し、アメリカを恨んでいない

 私は日本が1945年6月から、スウェーデンとソ連政府に和平の仲介を求めており、ワシントンも日本が降伏しようとしていることを、知っていた。原爆投下がなくても降伏したから、原爆投下は無用だったと説明した。

 私は原爆投下は国際法に反し、人道にもとる残虐行為だったが、戦争の狂気に駆られて行われたことだったから、日本国民は原爆投下を赦(ゆる)しており、アメリカを恨むことはまったくないと、結んだ。

 講演をはじめから10分もすると、100人、150人と、家族とともにつぎつぎに席を立って、廊下へ出ていった。

 そして、抗議するために、廊下に集まって愛国歌を合唱しはじめた。私が話を終えた時には、会場は空席ばかりになって、40人あまりしか残っていなかった。

 そのなかに、ティベッツ准将もいた。私が感動したのは、私が演壇から離れると、ティベッツ准将はすぐに廊下へ出ていったが、30人あまりが列をつくって、私に握手を求めて「よい話だった」とか、「日本の見方がよく分かった」といった。

 そのあいだも、廊下から愛国歌を合唱する声が、流れてきた。

 原爆投下によって…

 旧隊員たちは、広島と長崎に原爆を投下したことによって、日本が降伏して、日本本土への侵攻戦を戦うことがなかったために、数百万人の日米両国の人命が救われたと信じて、大きな誇りとして生きてきたのだった。

 私を講師として招いたのも、原爆の投下によって日本が救われたと感謝するのを、期待していたのだった。

 最後まで会場に残った旧隊員の1人が、「もし、ジェネラル・ティベッツが廊下に出たとしたら、全員が従った。そうしたら、あなたは1人だけになったはずだ」と、いった。

 その夜、ホテルで晩餐会(ディナー)が行われて、私も招かれていた。ところが、その前に「隊員のなかに、私を『殴り殺す』といきまいているのがいるから、今晩は部屋から出ないで、ルームサービスをとってほしい」といわれた。

 前日だったが、旧隊員の1人が「戦後、ティベッツ准将は軍人として不遇だった。原爆投下部隊の指揮官として選ばれた俊材だったのに、ヒロシマに核攻撃を加えたことを、称えることができなかったから、少将まで昇進できなかった。気の毒な人だ」と、打ち明けてくれた。
 
 アメリカにおいても、原爆投下を強く非難する声がある。
ルーズベルト大統領の前任者だったハーバート・フーバー大統領が回想録のなかで、「トルーマン大統領が人道に反して、日本に原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を疑わせるものである。アメリカの歴史において、未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を、永遠に責むものである」と、述べている。(『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』藤井厳喜など著〈勉誠出版、2016年〉を読まれたい。)

 アメリカにおいて原爆投下を非難する声
 
 私は1945年8月に、広島に原爆を投下することを決定した、ホワイトハウスの会議に参画した、ジョン・マクロイ陸軍次官と夕食をとったことがある。

 1980年にニューヨークを訪れたところ、『ニューヨーク・タイムズ』社の女社主だったイフジーン・サルツバーガー夫人が、私たち夫婦のために、郊外のスタンフォードにある私邸で晩餐会を催してくれた。私は夫人と親しくしていた。

 マクロイ氏は、夫人の古い友人だった。タイムズ紙の大記者と呼ばれた、ジェームズ・レストン記者も招かれていた。
私はマクロイ氏に、広島、長崎に対する原爆投下を話題にして、「もし、あの時に日本が原子爆弾を1発でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたとしたら、日本に核攻撃を加えたでしようか」と、質問した。

 すると、レストン氏が驚いて、「なぜ、そんな当たり前のことを、質問するのか。きかなくても、答が分かっているだろう」と、口をはさんだ。私は「これまで原爆投下の決定に参画した人に、会ったことがないので、確かめてみたかった」と、答えた。

 すると、マクロイ氏が「もちろん、あなたも答を知っているはずだ。もし、日本があの時に原爆を1発でも持っていたとしたら、日本に対して使用することは、ありえなかった」と、いった。

 広島の慰霊碑の言葉の重さ

 私はそれ以来、広島の平和記念公園の慰霊碑に刻まれている、「過ちは二度と繰り返しません 安らかにお休み下さい」という碑文を、核兵器を持たないために、再び悲惨な核攻撃を招くような過ちを繰り返してはならない、という誓いの言葉として、読まなければならないと思ってきた。

 日本は被爆国家として世界に何を話すべきか

 私は核武装の是非は別にして、日本は世界唯一つの核被爆国家として、世界のどの国よりも、核武装する権利があると信じている。

 それに、日本が第三国から核攻撃を蒙ることがあった場合に、アメリカがニューヨークや、ロスアンジェルスを犠牲にしてまで、日本に代ってその国に核報復攻撃を加えることは、まったく期待できないと思う。

 オバマ大統領が広島の原爆慰霊碑に詣でたことによって、日本が将来、核兵器を必要にする場合に、核兵器を保有することが、難しくなったのではないだろうか。

 私はオバマ大統領が黙祷する姿を、テレビで見ながら、複雑な思いにとらわれた。

 はたして日本が核兵器を持たないでいることが、71年前に悲惨な核攻撃の犠牲になった、同胞の願いなのだろうかと思う。


  舛添都知事問題で露見した国民も呆れる役立たずの「ザル法」
    Date : 2016/06/21 (Tue)
 6月に、北朝鮮が日本を射程に収めるミサイルを試射すると予想されたために、“虎の子”のPAC3が防衛省構内に据えられた。

 防衛省を見降して、マンションなど多くの高層ビルが建っている。猟銃でも使って、“虎の子”の迎撃ミサイルが狙撃されたら、どうするのだろうか。

 北朝鮮がミサイルの試射に失敗したということから、PAC3は撤去された。

 今年に入ってから、日本のマスコミは金正恩書記長の北朝鮮が“水爆実験”を行ったり、長距離ミサイルを打ち上げたために、連日、北朝鮮一色に染まった。

 6月にシンガポールのアジア安全保障サミットに出席する途中、東京に寄った国防省(ペンタゴン)幹部から、「中国が数多くの核ミサイルを、日本に照準を合わせている。中国の核ミサイルの脅威のほうが切実なのに、なぜ日本は北朝鮮の核実験や、ミサイルにばかり目を奪われて、目を瞑(つむ)っているか」と、たずねられた。

 日本はどうかしている。民進党の岡田克也代表が、「中国との関係がうまくいってないのは、安倍首相の言動が原因」とか、中国の習近平主席が「戦争に備えよ」と叫んでいるのをよそに、安保関連法を「戦争法」と極めつけているように、箍(たが)が緩んでいるのだ。

 新聞はもう新聞離れが進んでいるから、目端(めくじら)を立てることはない。日本国民の大多数が、テレビニュースを頼るようになっている。

 日本の大手テレビは、ニュースを食い物にしている。北朝鮮の“水爆実験”や、“ミサイル試射”を取り上げてはしゃぎ立てるのは、このところの舛添報道とよく似ている。

 舛添都知事による一連の不祥事は、あまりにも卑しく、とうてい風上に置けない。私もテレビがいくら懲めても、足りないと思う。

 だが、舛添都知事という妖怪をテレビの寵児(ちょうじ)にして、スター政治家として育てたのは、テレビではなかったのか。テレビは舛添都知事を賑々しく叩いて、喜々としているが、自分たちが化け物をつくった張本人であることに対して、ひと言の反省もない。

 舛添氏は「申し訳ありません」とか、「汗顔に堪えない」とか、「今後は自らを厳しく戒めて」と連発しているから、まだ可愛いが、テレビは図太い。

 まさに手塩をかけて猛牛を育てたうえで、数万人が見守るリングに引き出して、観客が大喝采するなかで、嬲(なぶ)り殺しにするスペインの闘牛と同じものだ。

 舛添氏が傭った、“第三者”である2人の弁護士によれば、サラリーマンであったら横領となるのに、政治資金規制法のもとでは違法に当たらないと説明したのに、都民全員が政治資金規制法が役立たずの「ザル法」だと、呆れかえったはずである。

 有事に当たって、総理大臣が防衛出動命令を下さなければ、自衛隊が武器を使用することができない自衛隊法も、役に立たない「ザル法」である。

 海上自衛隊の護衛艦の目の前で、海上保安庁の巡視船か、日本の船舶が、外国の公船か、軍艦の攻撃を蒙っても、内閣総理大臣が自衛法第76条に從って閣議にはかったうえで、衆参両院が承認しなければ、防衛出動命令を発することができない。

 もっとも、緊急の場合は、国会の事後承認でもよいとされているが、首相が防衛出動命令を発するまで、武器を使用するのを、のんびりと待っているわけにはゆくまい。


  憲法は人間生活の“目的”ではない
    Date : 2016/06/03 (Fri)
 国民のなかで、憲法改正問題について、朝日新聞を参考にしている者が多いと、思う。

 日本国憲法は、1946(昭和21)年11月3日に公布された。

 この日、皇居前広場で新憲法公布の祝賀都民大会が開かれた。昭和天皇と皇后が、馬車で二重橋を渡られ、群衆の歓呼に応えられた。

 翌日の朝日新聞の社説は、こう述べている。

 「憲法は、国家の基本法であるから、しばしば改正することは、もとより望ましいことではないが、人民の福祉のために存在する法律である以上、恒(つね)に生命のあるものとしておかねばならない」

 「慎重は要するが、憲法改正については、国民として不断の注意を怠らないよう心掛けるべきである」

 1952(昭和27)年の憲法記念日に、日本はすでに独立を回復していた。

 この日の朝日新聞の社説は、「いま憲法を改正すべきか否かについて、各人各説の論議が行われている。一つの国家が一つの憲法をもって、これを永遠に貫くことは出来ないであろう。

 いかにも情勢の変化には対応しなければならぬ。しかし、果たしてその変化が、憲法を改めなければならないほどのものか、改めるに価するものかを、いまだに見きわめるに至っていない。改めざるを得ないことになるにしても、憲法を守る努力がなされて、そのうえで改めるのと、ずるずるふんぎりもなく改めるのとでは、改正の意義を生かす上に格段の差がある」と、主張している。

 翌年の朝日新聞の論調も、同じものだ。

 「われわれはあくまでもこの民主憲法を擁護してゆかねばならないが、それは各条項の一字一句を、そのまま永久に踏襲していかねばならないということではない。しかし、改正意見を軽々に提出する前に、もう一度、新憲法をよく読み返す必要があるのではあるまいか。(中略)改正すべき点があれば、改正点を考えてみるのがよかろう」

 朝日新聞は翌年の憲法記念日に社説で、「憲法の各条文にわたって子細に検討を加えれば、その個々の内容において、手を加えるべき余地の存するものがあることは、あながち否定できないのである。

 憲法改正論が結局、全面的な改正論となり、それはとりもなおさず新憲法の制定を目指すことになるのも、その当然な道程であろう。これを改正するも、それを擁護するも、一人一人の国民の決意如何にかかわることなのである」と、説いている。

 その後、朝日新聞の論調が、しだいに護憲へ傾いてゆき、ついには今日の護憲主義を取るようになった。

 憲法記念日ごとの社説を読んでゆくと、今日の護憲主義が、先の戦争の惨禍に対する反動から生まれたものはなく、日本国民がアメリカの軍事保護にしだいに慣れていって、アメリカの保護を天与のものだと錯覚するうちに、支配的になったことを、教えてくれる。

 人間生活では、あらゆるものが相対的なものであって、流動している。そこで、人が状況に合わせてゆかねばならないはずだ。

 いうまでもなく、憲法も生活の道具の一つである。憲法は人間生活の手段であって、憲法のほうが目的になってはならない。

 現行憲法を墨守するのは、ガリレオが反抗した中世ヨーロッパの不合理な、不動の宇宙観によって、縛られているのに均しい。


  九州の震災と日本の国民性
    Date : 2016/05/30 (Mon)
 九州の熊本県から大分県まで、地震に襲われた。

 5年前の東北の大震災の時もそうだったが、私はすぐに宮沢賢治を思い出した。

 私は小学生のころから、宮沢賢治を多くの友の1人としてきたが、いつのまにか大地震のニュースに接するたびに、賢治が頭に浮かぶようになった。

 宮沢賢治の人や自然への思いやり

 おそらく日本の作家のなかで賢治ほど人や、自然を思い遣って、やさしかった人はいなかっただろう。

 賢治が生まれる2ヶ月前の明治29(1896)年6月に、東北が三陸大津波に襲われて、岩手県だけで2万2千人以上が死んでいる。賢治が花巻で生まれてすぐに、8月31日に大地震が起って、岩手県で数千人が生命を失った。母のイチが生後4日目の賢治のうえに、覆いかぶさって守っている。

 賢治の作品は生命へのいとおしさが、何より大きな特徴となっている。作品のなかでは「かなしい」「さびしい」という2つの言葉が、どの言葉よりも多く使われている。

 私は三陸大津波や、大地震の体験が、賢治の感性をつくっているにちがいないと、思ってきた。

 関東大震災直後の作品

 関東大震災の15日後に『宗教風の恋』を書いているが、関東地方を襲った大地震と津波によって、東京と8県の死者と行方不明者を合せると、14万人以上にのぼった。

 賢治は「なぜこんなにすきとほってきれいな気層のなかから、燃えて暗いなやましいものをつかまへるか。信仰でしか得られないものを、なぜ人間の中でしっかり捕へやうとするか。風はどうどう空で鳴ってるし、東京の避難者たちはいまでもまいにち遁(に)げて来るのに、どうしておまへはそんなに医(いや)される筈(はず)のない悲しみを、わざとあかるい空からとるか」と、綴っている。

 賢治から学んだもの

 賢治は花巻で昭和8(1933)年に、病死した。その6ヶ月前の3月に、東北が再び地震と津波によって襲われた。

 私は賢治によって、法華経を知るようになった。賢治から地涌菩薩とか、無量寿仏という言葉や、「むずかすさ」(難しさ)という方言を、習った。賢治の作品には方言が多く使われているが、人工的に造られた標準語よりも、血が通っていることを教えられた。

 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は日本人の心根だ

 賢治の詩「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は学校教科書に載っているから、日本人だったら誰だって知っている。私はまるで警視庁の交通安全のスローガンを列記したようなので、詩として好まないが、日本人の心情が溢れている。この詩は日本人のほかに、書けないと思う。

 「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ」と、「行ッテ」が3回も繰り返されていることに、5年前の東日本大震災や、今回の熊本地震に当たって、全国から被災地を救援するために、大勢がボランティアとして向かった日本人らしい、心根(こころね)を重ねあわせた。

 日本社会の一体感

 この詩が「雨ニモ……風ニモ……雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ」と始まっているのには、日本の四季が描かれている。東西南北に心を配っているが、日本社会に一体感があって、とても日本人らしいことだ。

 だからこそ、この詩が日本国民によって、ひろく親しまれてきたのだろう。

 地震が日本人の心を磨いてきた

 私は賢治に親しむようになってから、東北地方の地震の記録に、関心を持つようになった。

 明治29年の三陸大津波は、岩手県釜石市(現在)の東方約200キロの海底地震によって、もたらされたものだった。賢治はその37年後の昭和8年9月に没したが、その半年前の3月に、釜石市東方の同じ海底が震源となって強震が発生して、津波が襲来した。岩手県の被害が最大だったが、宮城県、青森県の三県で3000人あまりが亡くなった。

 三陸大津波の40年前に当たる安政3(1856)年にも、北海道南東部を震源地として、青森県と岩手県にかけて三陸沿岸が津波によって襲われ、多数の死者をもたらした。

 地球の地震の90%は太平洋周辺

 地球上の地震の90パーセントが、太平洋の周辺で発生することは、よく知られている。私たちは地震と隣合わせて、生きてきた。

 『方丈記』の地震は今日も変わらず

 鴨長明は『方丈記』のなかで、鎌倉時代前期の元暦2(1185)年に京都を襲った大地震を体験して、「家の内にをれば、忽(たちまち)にひしげ(押し潰され)なんとす。走り出づれば、地、割れ裂く。羽なければ、空も飛ぶべからず、龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れの中に恐るべかりけるは、ただ、地震なりけりとこそ覚えしか」と、記している。
 
 この時も余震が長く続き、「地震の事、今日に至るまで四十七日間、一日として止(や)まず、或いは四五度、或いは両三度、或いは大きく動き、或いは小さく動き、皆、毎度声有り」と、記録している。

 日蓮聖人も鎌倉時代の人であるが、その代表的な著作の1つの『立正安国論』のなかで、天変地異がしきりに起ることについて警鐘を鳴して、地震の恐しさを描いている。

 日本列島は縄文時代(紀元前1万2000年〜前4500年)の昔から、地震が頻発してきた。そのころから、互に無償で進んで助け合うことが、慣わしとなったのではないかと思う。宮沢賢治のやさしい心情も、東北をしばしば襲った大地震や津波によって、育くまれたにちがいない。私は東北をさまざまな仕事のために訪れたが、東北の人々は頻繁に苛酷な飢饉に見舞われてきたこともあって、ことさら情が厚い。

 日本文化の特徴はやさしさにある

 日本文化のもっとも大きな特徴は、やさしさにある。これほどまでやさしい文化は、世界に他にない。日本が島国であって、幸いなことに外敵によって、侵されることがなかったことによっても、何よりも和を重んじるようになった。

 地震や大津波は跡形もなく、すべてを破壊してしまう。そのために、日本人はうつろってゆく美しさをたっとび、物事に拘泥(こうでい)しない。日本人にとって花が美しいのは、西洋人に理解することができないが、散るからである。中国人や、西洋人のように、財に執着することなく、その時々の心のありかたを尊ぶ。

 有為の奥山今日こえて あさき夢みじ醉いもせず

 いろはうたの「色はにほへと散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ有爲(うゐ)の奥山今日こえて あさき夢みじ醉(え)ひもせず」といえば、国民の誰もがなじんでいる。形あるもの、華やかなものは、すべてうつり去ってしまう。

 いろはうたは、賢治の「雨ニモマケズ」と同じように、日本以外の国であれば、これほど国民によってひろく受けいれられることがありえない。中国や、西洋の国民は、即物的である。

 茶道も、日本に独特なものだ。思い遣りと、いたわりの心によって、つくられている。千利休(1522年〜1591年)が、「人の心をなごやかにするには、まず己の心をなごやかにすること肝要なり」と説いているが、古来から日本人に備わってきた茶人的な性格が、茶道となったにちがいない。

 和食は日本人の心、多感で繊細

 和食は世界の料理のなかで、もっともやさしい。自然となごんで、自然の味を楽しもうとする。私たちは食を通じて、自然を感じようとする。日本料理は、日本人の心と同じように多感で、繊細なのだ。

 かつて日本では4、50年前までは、どこへ行っても人情が、微粒子のように空気のなかを飛びかっていた。はじめて入る一杯呑み屋の客となっても、和――情がぬくもりをもたらしてくれた。

 日本らしさを守ることが日本の心を豊かにする

 日本でこの4、50年のうちに西洋化が進んで、老いも若きもオシャレになった。女性は化粧がうまくなった。その反面、男女とも表情が険悪になった。過ぎ去った日本が懐かしい。日本らしさを守りたい。 


  トランプ現象にはやくもオタオタ
    Date : 2016/05/26 (Thu)
 私は日本を守るために、外務省を解体して、建て直したほうがよいと思う。

 この2月に、日本人が委員長をつとめる国連女性差別撤廃委員会が、日本が十数万人のアジアの無辜の娘たちを拉致して、性奴隷となることを強いたという、怪しげな報告書を発表した。

 報告書は皇位の男系による継承も、差別として非難していたが、さすがに外務省が強く反発したために、削除された。
日本が女狩りして性奴隷としたという誹謗は、1992年の河野官房長官談話に端を発しているが、外国政府や、国際機関が繰り返すごとに、日本が非道な国だというイメージが、世界に定着してきた。

 これは、由々しいことだ。日本が万一、危機に陥ることがあった場合に、国際社会から援けてもらわねばならないが、日本がおぞましい国だとなったら、誰も救おうとしないだろう。

 この国連委員会の委員長は、福田康夫内閣の時に外務省が国連に推選して送り込んだ女性活動家で、それまでは政府の男女共同参画社会の推進役をつとめていた。

 あるいは、国連人権関連委員会が2008年から14年まで、4回にわたって、沖縄住民が日本における少数民族であり、日本民族から迫害を蒙って、人権、言葉、文化などを奪われてきたという報告書を発表して、是正するように勧告してきた。外務省は一度も反論せず、撤回を要求することもなかった。

 中国は沖縄を奪おうと狙って、中国国内に琉球共和国(憲法、国旗も発表)政府が置かれ、沖縄住民が中華民族であると唱えてきた。このような国連委員会の勧告は、中国を力づけるものだ。

 沖縄住民は疑いもなく、日本人だ。沖縄方言は、さらに本島南部、北部、宮古、八重山、南奄美、北奄美など、多くの方言に分かれるが、日本語である。

 この突飛だとしかいえない、国連委員会の勧告のもとをつくったのは、日本人グループであって、外務省の多年の御用(ペット)学者の武者小路公秀氏が理事長をつとめる、「反差別国際運動」が中心となった。武者小路氏は金日成主席以来、北朝鮮を礼讃してきたことによっても知られるが、1976年には外務省の推薦によって、東京の国連大学副学長に就任している。

 今年4月に、沖縄選出の宮崎政久議員(自民党)が衆院内閣委員会で、この国連委員会の勧告について質問し、木原誠二外務副大臣が政府として撤回するように働きかけることを、はじめて約束した。

 相手国の代弁者たち

 このような例は、枚挙にいとまがない。外務省は多年にわたって、日本を深く傷つけてきた。

 日本とアメリカの外務省と国務省には、奇妙な共通点がある。日本の外務省は、別名「霞ヶ関」と呼ばれる。

 国務省はホワイトハウスと、ポトマック川のあいだにある。ワシントンはアメリカが独立した直後の1800年に、湿気がひどい泥地に建設されたが、国務省がつくられたところは、とくに霧が立ち籠めるために、「フォギー・ボトム」(霧の底)と呼ばれてきた。

 もう一つの共通点は、両国とも外交官が他の省庁から嫌われていることだ。

 霞も霧も、大気中に漂う微細な水滴であって、視界を曇らせる。アメリカでも、国務省のキャリアの外交官は、外国贔屓となって国益を忘れやすいといって、胡散(うさん)臭い眼で見られている。

 外交官の宿痾か、職業病だろうが、ある外国を専門とすると、その国に魅せられてしまうことだ。その国の代弁者になる罠に、落ちる。

 もし、私がある南洋の新興国の文化と言語に打ち込んで、外交官となったら、きっと首狩り習俗や、食人習慣まで含めて、その国に強い親近感をいだくことになろう。その国に気触(かぶ)れてしまい、日本の国益を二の次にするようになる。

 わが外務省にも気の毒なことに、国籍不明になった犠牲者が多い。

 もっとも、日本の外務省のほうが、病いが重い。

 日本が犯罪国家だという幻想にとらわれて、謝罪することが、外交官のつとめであると、思い込んでいる。

 中国、韓国を増長させて、日中、日韓関係を悪化させてきた。責任は外務省にある。

 外務省員の多くの者が、日本に誇りをいだくことが、まったくない。外交研修所における教育が、悪いからだろう。

 1992年8月に、宮沢内閣が天皇ご訪中について、有識者から首相官邸において個別に意見を聴取したが、私はその1人として招かれた。

 私は「陛下が外国に行幸(ぎょうこう)されるのは、日本を代表してその国を祝福されるためにお出かけになられるものだが、中国のように国内で人権を蹂躙(じゅうりん)している国はふさわしくない」と、反対意見を述べた。

 その前月に、外務省の樽井澄夫中国課長が、私の事務所にやってきた。「私は官費で、中国に留学しました。その時から、日中友好に生涯を捧げることを誓ってきました。官邸にお出掛けになる時には、天皇御訪中に反対なさらないで下さい」と、懇願した。

 私が中国の人権抑圧問題を尋ねると、「中国に人権なんて、ありません」と、悪びれずに言ってのけ、水爆実験をめぐる問題についても、「軍部が中央の言うことを、聞かずにやったことです」と、答えた。

 私が「あなたが日中友好に生涯を捧げるというのは個人的なことで、日本の国益とまったく関わりがないことです。私は御訪中に反対します」というと、悄然として帰っていった。

 外国の代弁者になってしまう、不幸な例だった。

 理路整然たるバカ

 私は41歳のときに、福田赳夫内閣が発足して、第1回福田・カーター会談を控えて、最後の詰めを行うことを頼まれた。首相特別顧問の肩書きを貰って、ワシントンに入った。

 私はカーター大統領の後見役だった、民主党の元副大統領のハンフリー上院議員や、カーター政権の国家安全会議(NSC)特別補佐官となった、ブレジンスキ教授と親しかった。

 内閣発足後に、園田直官房長官から日米首脳会談に当たって、共同声明の“目玉”になるものがないか、相談を受けた。

 私は園田官房長官に“秘策”を授けた。日本はこの時に、すでに経済大国となっていたが、日本のマスコミが、毎年「一人当たり所得ではベネズエラ以下」と報じていた。私は日米共同声明でカーター大統領に「日本は国連安保理事会常任理事国となる資格があり、支持するといわせることができる」と、いった。総理も「それだ」ということになった。

 そのうえで、山崎敏夫アメリカ局長と会った。すると「そのようなことが、できるはずがありません」と、冷やかにあしらわれた。私は首脳会談へ向けて、両国が打ち合わせた記録――トーキング・ペーパーを見せてほしいと求めたが、峻拒された。

 「役割分担でゆきましよう」と促したが、木で鼻を括(くく)ったような態度で終始した。

 トーキング・ペーパーのほうは、発つ前に鳩山威一郎外相に見せてもらって、凌(しの)いだ。

 私は総理一行がワシントン入りした前日に着いて、ホワイトハウス、国務省、国防省などをまわった。出発前に電話で話をまとめていたから、念押しのようなものだった。

 翌日、ホワイトハウスの前にある迎賓館(ブレアハウス)で、総理一行と合流して、首尾よくいったことを報告した。

 福田カーター会談の共同声明では、私の献策が目玉になった。

 私は2つの内閣で、園田外相の顧問として、アメリカにたびたびお伴した。園田外相は“ハト派”で、私は“タカ派”だったが、妙に気が合った。園田氏は外務官僚を「理路整然たるバカ」と、呼んだ。

 占領以来の大罪

 最後に首相特別顧問の肩書きを貰ったのは、中曽根内閣だった。私の外務省とのおつきあいは、長い。

 外務省には、日本が占領下にあった時代から、大罪がある。

 ニューヨークのマンハッタンに本部がある正しくは「連合国」と呼ばれる「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」を、意図的に「国際連合」と誤訳してきたことだ。「国際連合」と誤訳することによって、日本国憲法と並んで、戦後の日本国民の世界観を大きく歪めてきた。

 「国際連合」と誤まって呼ぶ「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」は、日本が連合国を相手にして、まだ戦っていた昭和20(1945)年6月に、サンフランシスコにおいて創立された。

 外務省が「国際連合憲章」と誤訳している「チャーター・オブ・ジ・ユナイテッド・ネーションズ」が、この時、日本と戦っていた51ヶ国の原加盟国によって調印された。

 世界のなかで日本ほど、国連に対する憧れが、強い国はない。だが、困ったことに、「国際連合」という国際機構は、世界中どこを捜しても存在していない。

 今日でも「国連憲章」は、外務省による正訳によれば、「われら連合国の人民は‥‥」と始まっている。原文は「ウィー・ザ・ピープルズ・オブ・ジ・ユナイテッド・ネーションズ‥‥」だが、「連合国」と正しく訳されている。
ところが、「ザ・チャーター・オブ・ジ・ユナイテッド・ネーションズ」を、「国際連合憲章」と訳している。同じ言葉であるのに、奇妙だ。

 「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」の正しい名称は、「連合国」なのだ。

 ヒラリー頼みの外務省

 連合国の公用語である中国語では、「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」は「連合国(リエンホーグオ)」だし、南北朝鮮も「連合国(ヨナプグク)」と呼んでいる。同じ敗戦国のドイツでも戦った相手である「ディ・フェアインテ・ナツィオネン」(連合国)であり、イタリア語でも「レ・ナツィオニ・ウニテ(連合国)」だ。

 「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」という呼称が、連合国を指す言葉として採用されたのは、日本が真珠湾を攻撃した翌月の1月1日のことだった。この日、日本、ドイツ、イタリアなどと戦っていた26ヶ国の代表がワシントンに集まって、「連合国宣言」を発した。

 ルーズベルト大統領がこの会議で演説し、日本や、ドイツと戦っている同盟諸国を、「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」と呼ぼうと、提案したことによった。

 日本は3年8ヶ月にわたって、「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」、連合国を敵として、戦ったのだった。日本の都市に国際法を踏躙して絨毯爆撃を加えて、非戦闘員を大量に殺戮し、広島、長崎に原爆を投下したのも、「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」の空軍だった。今日、日本で定着している国連という名称を用いるなら、国連の空軍が非人道きわまる爆撃を加えたのだった。

 “国連”が結成された時に憲章によって、加盟資格について「すべての平和愛好国」と規定されたが、日本、ドイツなどの枢軸国に対して宣戦布告していることが、求められた。そのために、今日でも“国連憲章”に「敵国条項」がある。

 外務省も、朝日新聞をはじめとする新聞も、敗戦後の昭和20年10月までは、“国連”を「聯合国」と正訳していた。「国際聯合」にすり替えたのは、「聯合國」だと、国民が占領軍に敵意をいだきかねないために、戦前の「國際聯盟」をもじって、そう呼び替えたのだった。

 都心の青山通りに面して、外務省が多額の国税を投入して誘致した、「国連大学」が聳えている。だが、「連合国大学」であったとしたら、誘致したものだろうか。

 「国際連合」と呼んできたために、“国連”を「平和の殿堂」のように崇めている者が多い。日本国憲法と国連に対する崇拝は、1つのものである。もし、正しく「連合国」と訳してきたとしたら、日本において国連信仰がひろまることがなかったはずだ。

 私は2005年から9年まで、朝日新聞のアメリカ総局長をつとめたK氏と、親しくしているが、ワシントンを訪れると、ホテルにたずねてくれて、朝食をとりながら、情報を交換した。朝日新聞社の奢りだった。

 ある時、K氏が「日本から来る人で、あなたぐらい、ワシントンで会いたいという者に、誰でも会える人はいない」と、いった。

 私はいまでも、年2回、ワシントンに通っている。

 ところが、日本の外務省出身の大使館員は、ワシントンでごく狭い社会のなかで、生活している。国務省ばかりを相手にしているから、他に人脈がまったくない。

 霞ヶ関の外務省では、毎朝、省員が登庁すると、全員が跪いて、ヒラリー夫人の勝利を祈っているという。ヒラリー夫人はオバマ政権の国務長官を務めたから、日本国憲法が日本に課している特殊な制約を、よく知ってくれているはずだからだ。

 夫人のアジア外交のアドバイザーは、日本担当の国務次官補だったロバート・キャンベルだが、外務省が飼い馴らしてきたから、安心できる。

 外務省は“トランプ現象”のようなことが起ると、対応することができずに、狼狽えるほかない。

 もっとも、外務省を解体すべきだといっても、できることではない。そこで、国民が外務省に対して向こう20年か、30年にわたって、保護観察官か、保護司となって、目を光らせて、補導するほかあるまい。


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